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<機関誌「SCOUTING」2023年1月号の記事を本サイトにも掲載しております。内容は機関誌発行当時のものです。>

100周年を迎えたボーイスカウトのこれまでの歩みについて、先達のお話を伺います。今回は、日本連盟の理事や総コミッショナーを歴任された鈴木國夫先達に、特に印象的なエピソードについて教えていただきます。


 

日本ボーイスカウト運動100年史から
日本連盟先達、千葉県連盟顧問・先達 鈴木 國夫

日本のボーイスカウト運動100余年の歴史において最大の出来事といいますと、1921(大正10)年、皇太子殿下(後の昭和天皇)のご外遊をおいて他にないと思います。殿下は22日間のイギリスご滞在中、B-P卿を引見されたことをはじめ3回に及ぶボーイスカウト集会の視察をされました。2回目にエジンバラのボーイスカウトの大集会にご出席された殿下より、令りょうじ旨(れいし※)を賜りました。この令旨が日本国内に伝えられ、少年団関係者に組織統一への意識が高まり連盟結成へと繋がったのです。この出来事なくして今日の「記念」はあり得ません。感謝すべき記念の年度です。

令旨りょうじ(「れいし」ともいう) 皇太子の言詞や意を奉じた文書

無念残念なお話

ボーイスカウト運動がイギリスで創始したのは1907年、少年団日本連盟が結成されたのは1922年、15年の差があります。しかしながら、1908(明治41)年にはボーイスカウト運動は日本に伝わってきていたのです。秋月左さつお都夫(「さとお」との記述も)ベルギー公使から、「この運動は、イギリスだけでなく、ヨーロッパ各国に波及して、世紀の火花となりつつある」との日本政府への報告があり、時の文部大臣は、秋月の義弟である牧野伸顕。牧野文相は、もし青少年の教育に有益なものならば日本でも採用してみようと考え、ちょうどこの年、ロンドンで開かれる万国道徳教育会議に日本代表として出席する広島高等師範学校の北条時ときゆき敬(「ときたか」との記述も)校長にその調査を依頼したのでした。北条校長は運動の起因を調べ、翌年の初夏、帰国のときには、ボーイスカウトに関する書物や訓練用品一式を日本に持ち帰ったのでした。ところが、帰国したときには内閣が替わり、受け入れるところとならず! 後で分かったのですが、この内閣の逓信大臣が誰あろうに、後藤新平伯であり、後に初代の日本連盟総裁(後に総長)となる人だったとは……。後年、後藤総長は、「もし私が知っていたら、その時すぐボーイスカウトを採りいれただろうに……」と言われた。後藤総長も北条校長も非常に残念がったそうです。この逸話は当時広島高師の付属中学生であった中村知先哲が「日本BS史のひとこま 〜無念残念13年」と述べています。

無名の初代チーフ・スカウト 〜下田豊松

日本連盟結成時、その活躍が知られていない人がいます。北海道岩内少年団の下田豊松団長です。第1回国際ジャンボリーに参加した人として知られてはいますが、その後の活躍があまり知られておりません。帰国後、ジャンボリー報告と少年団結成を訴えて、日本全国を行脚し、講演回数は100回を超えました。下田団長は、1921(大正10)年に少年団の全国統一組織「日本健児団」(Boy Scouts of Japan)を創設し、正式加盟国としてイギリスの国際本部に登録しました。ジャンボリーに参加以来、下田団長は日本のチーフ・スカウトとして、B-P卿はじめ多くの諸外国連盟から認知され、名実共に初代のチーフ・スカウトとなったのでした。新たな全国組織として少年団日本連盟が発足した時、本人が築いてきた日本健児団を率いて、新発足の日本連盟の発展に進んで協力しました。94歳の天寿を全うしましたが、日本連盟の歴史の中に、記録の中に、初代のチーフ・スカウトとしては残っていない下田豊松です。しかし、この無名の指導者こそ、日本のスカウティングの世界への第一歩をしるしたパイオニアであった人物です。

ギルウェルコース

1929(昭和4)年の第3回世界ジャンボリー(「国際」から「世界」と改称)に日本から佐野常つね羽は理事を団長に25 人が参加しました。派遣団一行は、参加各国の幹部の見事な活動ぶりに感心させられ、調べるとその幹部のほとんどがギルウェル訓練所修了者であることを知りました。この佐野常羽長老こそ日本における指導者養成の道を拓いた人であります。
この訓練所は、B-P 卿が1919(大正8)年、ロンドン近郊のギルウェルパークに開設したスカウティングの根本道場に由来することはご承知のとおりです。

戦後、ギルウェルパークのコースと同じものを日本で開設したいという積年の念願がかなえられ、第1回日本ギルウェル実修所は1957(昭32)年、開設されました。当時、実質的に少年隊の指導に当たっていた私は、『ポケットブック』と『スカウティング』誌を指導書としておりましたが、隊員の指導にはもっときちんと勉強したいと願って、第3回に入所の許可を得ました。9日間の実践教程を経て自らのスカウティングが間違っていたことに気付きました。特にパトロール・システムにはまさに身を以って体得し、帰隊し即刻実行に移しました。折しも出版された中村知訳ローランド・フィリップス著『班パトロールシステム制教育および班長への手紙』と首っ引きでした。班長会議、班長訓練、対班競点の実施……など徹底していくと、次第にスカウトの眼は輝き隊は活性化しました。3年後に成果の一つが表れました。1962(昭和37)年、アジアジャンボリー(兼第3回日本)でパトロール対抗クロスカントリーのプログラムにおいてわが団のパトロールが優勝を遂げたのです。

戦後の日本ボーイスカウトの再建に当たって三島通陽(後に第4代総長)は“再建は真のスカウティングであるべきである。パトロール・システムを真にやるかどうかが団の良否の分かれ目になる” と述べ、その成果を出されました。創始者も『隊長の手引』にて同様に述べています。私は、中核部門であるボーイスカウト隊の充実こそ、今、最も重要なことであると主張します。

ボーイスカウト日本連盟機関誌「SCOUTING」2023年1月号にも掲載している内容です

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