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棚村 治邦(たなむら・はるくに)さん
棚村さんは1977年生まれで、兵庫県西宮市出身。西宮第16団(現・西宮第27団)カブスカウト隊に入り、スカウトの道へ。高校3年生のときに富士章(当時)に進級。京都大学法学部に進学後、司法試験に合格し裁判官に。現在、名古屋地方裁判所勤務。

聞き手:澤朋宏(日本連盟 社会連携・広報委員長)

はじめまして。裁判官としてお勤め・・ということは全国いろいろと赴任されたんですか?

棚村 はじめまして。よろしくおねがいします。そうですね・・・西宮の生まれで、大学は京都に行っていて、司法修習の時代は名古屋に。その後、裁判官として名古屋に再び。そこから衆議院の法制局務めを経て、千葉、高松、大阪で務めた後、いままた、名古屋で裁判官として働いています。

◆きっかけは「カレーライス」

さすがのご活躍ぶりですね。さて、ボーイスカウトに入ったきっかけはなんだったんでしょうか?

棚村 小学校3年生のときに、クラスでカブスカウトのチラシが配られたんです。実は、私がいた団は毎年、公園でバザーをしていて。そこに以前から行っていたんです。そこで食べられるカレーライスが美味しくて・・・・

カレーライスがきっかけ??

棚村 えぇ、(あー、あの美味しいカレーを作っているところだ!)って思い出して、そのまま、体験して、入隊したんです。あとになってからですが、団の指導者が『バザーで食べたカレーがきっかけでボーイスカウトになるやつもいるんだから、バザーではカレーを出すべきだ!』なんて言っていて、それ、僕のことじゃないか?と(笑)

どんな雰囲気の団だったんですか?

棚村 当時は・・・たしか、カブ隊でも組が3つありました。比較的新しい住宅街にあった団で、スカウトもたくさんいましたね。団内の交流も活発で、年に一度、保護者も集めてみんなでハイキングをしていました.

西宮のご出身・・阪神大震災のときはどうだったんですか?

棚村 私は当時高校2年生だったんですが、学校は一ヶ月くらい休校で。それで、シニアーとローバーのみんなでシフトを組んで近くの小学校で食料の配給などのボランティアをしていました。

皆さんの発案で、ですか?

棚村 えぇ。実はうちの団は地元の小学校の敷地を使っていろんな行事をさせてもらっていたんです。そんなお付き合いがあったので、震災で多くの方が学校に避難してきたときに、そこに私たちがボーイスカウトとしてできることを支援していくのはとても自然な流れでした。

普段からの地域との密接な関係性があってのもの、ですね。

◆スカウトとしての活動と、中学受験

棚村さんはどんなお子さんだったんですか?

棚村 スポーツは・・・得意じゃなかった(苦笑)。当時のボーイ隊への進級課目には体力測定のようなものがあって、あれがなかなかクリアできない。でもどうしても進級したくて、ハンドブックをよく読んでみたら「必ずしもできなければならないわけではない」なんて補足事項が書かれているのを見つけまして。

たしかに、ありましたね。その、追記事項。

棚村 それを隊長に示して「なんとかしてください」って頼みまして。隊長には『そういうことを言うのは、お前が始めてだ』なんて言われましたけど、なんとか進級できました(笑)

中学受験をされたそうで、ボーイ隊との活動の両立は?

棚村 正直な話、上進直後の小6の1年間は、中学受験があったのでぜんぜん活動にいけませんでした。そのかわり、中高一貫校だったので、中3の頃はなにも気兼ねなく活動できたんですけどね。

上進直後に一年間活動できなくても、ちゃんと復帰されたんですね

棚村 いやー・・・続けるのが当たり前としか思ってなかったですね(笑)。カブ隊から上進するときに進級式を隊が開いてくれて。神社で、夜に集まって、ちかいをたてて。そのときに隊長が、「ちゃんと進級して、受験も済ませて、戻ってこいよ」と言ってくれたのが・・・いちばん大きかったですね。あのおかげで、戻るのは当たり前だって思っていました。

◆富士スカウトへの思い

富士スカウト章に挑戦しようと思ったのは?

棚村 うちの団には当時、隊には富士スカウトはいなかったんです。シニアー隊長はうちの団出身で、その方が富士スカウトで。その方以来、ずーっと富士スカウトは誕生していなかった。その隊長の思いもあって、いつのころからか、自然と富士スカウトになることを目指そうと思っていました。

当時はシニアースカウトの進級過程としての富士章挑戦。「挑戦キャンプ」と「個人プロジェクト」という2つの大きな取り組みがありました。挑戦キャンプはなにを?

棚村 高校2年生のときに、南アルプスの北岳へ。もうひとり同期で富士章進級を目指していた仲間がいて、彼の班と僕の班とで別々のルートから北岳を目指そう、と。ローバー隊(18歳以上)に登山経験のある先輩がいて、いろいろ教えてもらっての挑戦でした。

個人プロジェクトは?

棚村 「コンピューターウィルスについて、調べよう」と(笑)。

コンピューターウィルス?!

棚村 はい(笑)。1995年ですから・・ウィンドウズ95の時代ですね。当時、パソコンを使っていたら自分自身が感染してしまったことを友達に指摘されて気づいて、なんだこれは?となって、調べてみよう、と。

調べる・・といっても、当時はコンピューターウィルスについての書籍などもあまりなかったのでは?

棚村 いえ、ありましたよ。ただ、隊長から「本を読んで調べて終わり、じゃだめだ」と。「もっと、周りの人を巻き込んだアクションを起こせ」と。それで・・・いろいろあったんですよ(苦笑)

「いろいろあった」って・・・??

棚村 当時、ニフティサーブというインターネット上の掲示板に参加していて、そこで会員対象にアンケートを投稿したんですけど、誰も返事をしてくれなくて。それならばと、そのウィルス対策フォーラムの2万2千人ほどの会員全員にメールでアンケートを送ったんです。

2万人に???

棚村 はい(笑)。そうしたら、そのフォーラムの管理をしている方から「そういうことはしてはダメだというルールがあるよ」と諭されまして。

あらららら。

棚村 それで行き詰まちゃったんですが、それでも自分でいろいろやってみたことやぶつかったこと、諭されたこと、それでわかったことなどの顛末をレポートにまとめて隊長に見せたら「こういうのがいいんだ!よくなった!!」って、かなり喜んで褒められて(笑)

大変でしたが・・・その「アクションを起こす」「いろんな人と関わる」というのが、進歩・成長の中で大切なプロセスなんでしょうね。

棚村 そうだと思います。いろいろありましたけど、失敗から学びましたし、失敗したことが、とてもいい経験になりました。富士章受章後に東京へ行って総理大臣や皇太子殿下に表敬訪問もしましたが、団が顕彰式をしてくれたのもよく覚えています。

◆いまに続く、「学んで身についたもの」

そして大学は、京都大学へ。

棚村 はい、法学部へ進みました。その頃は、弁護士になろうと思っていたんです。

それが、いつ、目指すものが変わったんですか?

棚村 司法試験に合格した後、司法修習生として学んでいたときですね。

「裁判官という仕事」の魅力は何だったんですか?

棚村  上司が・・いわゆる、「上の人」がいない仕事なんです。自分で決める、ということがとても大事な仕事で。もちろん裁判所には「所長」という方もいるのですが、裁判の中身について口出ししません。ひとりの裁判官として自分自身でいろんなことを判断するというところに魅力を感じたんです。

若手もベテランも、決めるのは、自分、と。

棚村 えぇ。これは責任が重いと感じる方もいらっしゃるでしょうが、私はそこに、やりがいを感じたんです。

そんな裁判官としてのお仕事を続ける中で、富士スカウトに進級するまでの努力がいきているなと感じることはありますか?

棚村  そうですね。・・・失敗してから、どうするか、でしょうか。いえ、これは裁判官だけでなくすべての仕事にとって大切なことだと思うのですが、人は失敗することを完全に避けることはできません。やっぱりどこかで失敗してしまうことは、あります。ひとつ失敗しただけで挑戦から逃げ出すのではなく、後悔してくよくよするのでもなく、でもしっかり反省をして、諦めずに挑戦すること。この「失敗してから、どうするか」ということをボーイスカウトの中で学びました。これは、どの仕事をする上においても、大切な姿勢だと思います。

振り返って、ボーイスカウトで学んだことは今の道につながっていますか?

棚村 両親がボーイスカウトに入れてくれて、続けられて、良かったなって今でも思います。僕はカレーにつられて入ったクチですが(笑)。色んな人がアウトドアやキャンプという観点でボーイスカウトに興味を持たれるかと思うんですが、いちばん大事なのはちかいとおきてを実践していくということに変わりは無いと思います。あと、学校の仲間って、それはそれで楽しいんだけれども、なにか似通っているから楽しいんだと思います。ボーイスカウトではいろんな学校の仲間が集まりますから、色んなタイプの人と付き合うということが、お互いの成長につながっていたんだと思います。今振り返ると、その経験は今のわたしに大きくいきていると感じますね。
◆富士スカウトとして、生きる

棚村さんにとって、あらためて、「富士スカウト」って、どんな存在でしょうか。

棚村 そうですね・・・表現が難しいですが、やっぱり、『スカウトのお手本』でしょうかね。自分はどうかと思いますが(笑)。・・・いや、ちょっと違いますね。『お手本を目指すひと』でしょうかね、うん。
・・・えぇ、『お手本になることを目指すと宣言したひと』なんだと思います。

 

◆インタビュー後記
就職と同時に各地を転々とすることになり、スカウトとしての活動が難しくなって現場から離れられた棚村さん。今回の取材にあたり、ご実家から様々な資料を取り寄せてご自身の経歴を確認して臨まれたお姿、また、ひとつひとつの質問に対して真摯に答えを絞り出そうとするお姿に、「富士スカウトとして、スカウトのお手本であろうと宣言した」思いを感じました。
いまは法曹界でご活躍され、制服こそ脱いではおられますが、その胸には富士スカウトとしての臙脂の証が輝いているように見えました。
棚村さんは、富士の彼方に、なにを目指すのか。今後のご活躍を祈念いたします。弥栄。

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